《自己紹介》
兵庫県宝塚市で生まれ、育ち、そして今そこで仕事をしています。父の代から宝塚で事業をしており、宝塚に対してはムチャクチャ思い入れがあります。
幼稚園から大学まで全部地元の私学に通いました。5年ほど前、長期入院したときに入った病院が国立で、そこの食堂でひとり勉強をしていたので、最終学歴は「国立」ということにしています。
昭和20年大東亜戦争終戦の年に、父は米軍相手の建設請負業を始めました。土木建築業からだんだんと宅地造成業に特化していき、地元の有力企業のひとつになっていきました。息子ながら、父の商才には舌を巻くことがしばしばあったものです。
工期が8年もかかる宅地造成の現場の完成を最後に、父は会社をすっぱりと解散させました。これもすごいことだと、今になって思います。
大手不動産会社(実は父の会社のお得意先)で3年間勤務の後、父の会社に入社しました。そこでは別にこれといった仕事もなく、毎日が虚しく、苦痛でした。仕事がないほど惨めなことはありません。

《不動産会社設立へ》

そうこうしているうちに、父が所有している不動産を管理する会社を作ろうということになり、出口地所株式会社を設立したわけです。昭和56年のことでした。
会社を設立したからといって、別に営業するつもりはなかったのですが、たまたま友人が不動産会社を辞めたときだったので、誘って一緒に仕事をすることにしました。
資産管理会社のつもりが、仲介業のほうに足を踏み入れ、以降"ばたばた"あくせくと動き回ることになります。そしてけっこう苦労もするわけです。
しかしそういった立場に自分をもっていったのは、結果として本当に良かったと思います。親の資産を当てにして、のんべんだらりと生きていたのでは、決して今の自分はなかったことだけははっきりと言えます。
友人と二人、そしてすぐに事務の女性を雇い、社員3人の会社で出発しました。売買仲介がメインで、賃貸や管理などは思いもつきませんでした。賃貸仲介や管理業でも、きちっとやれば食べていけるのだと知ったのは、ずっと後のことです。

《出だしは順調》
今から思えば、極めて順調な出だしでした。毎月2、3件ぐらいの契約が上がっていたように思います。しかしながら、やはり経営が安定しだしたのは、3年目ぐらいからで、「石の上にも3年」とはよく言ったものです。
営業の仕方は、新聞折込みチラシを入れてはその反響を待つといったものでした。いくら今月たくさん契約を上げても、来月の契約件数の保証は何もありません。売買仲介ばかりに頼っていると、会社の固定経費が低い間はいいのですが、社員数が多くなった場合など、安定した経営が長続きしにくいという側面が確かにあると思います。
やがて社員が少しずつ増えだしました。しかし今から思い返してみると、初期の頃に入ってきた社員は、かなりレベルの低いのが混じっていたようにも思います(たとえば、サラ金からいっぱい借金していたり、生活が乱れていたり)。会社が小さい間は、きちんとした人はなかなか入社してくれないというのも事実でしょう。
会社をやっていこうとするからには、やはり大きくしたいわけです。経営者自身も若いし、野心も功名心もあるわけです。体力もあるし、がむしゃらに突き進んでもいけます。
しかし経営はバランスでもあります。バランスを崩したときに、運悪く横波でも来ようものなら、あっと言う間に転覆してしまいます。創業10年までに相当数の会社が消滅していくというのも、また事実であります。

《セミナーで学んだこと》
自分は経営には"ひよこ"なんだと自覚していましたから、いろんなセミナーに積極的に参加しました。そこで多くのことを学んだのはもちろんのこと、人脈も広がりました。不動産業でも、どのセミナーに行っても顔を会わせる人が何人かおり、当然友達になるのですが、勉強好きな人は会社を伸ばすということも、長い間の観察からわかりました。
ある税理士さんの、「顧問先を訪問していて、あることを発見した。それは、赤字会社はまちがいなくみんなトイレが暗くて汚い」という話を聞いたときは、妙に納得し、早々に会社のトイレの電気を100ワットに変え、掃除をしだしたものです。
経営コンサルタントの一倉定(いちくらさだむ)先生の話もよく聞きました。一倉先生の話は、@穴熊社長は会社をつぶす、A環境整備に徹せよ、B経営方針書を作れ、の3つに要約できると思います。
私の経営スタイルの基本的なところは、一倉先生から学んだことがかなり多いように思います。一倉先生の晩年には、ずいぶんお手紙もいただき、励まされました。
ランチェスターの法則の本もずいぶん読みました。田岡信夫氏の書かれた本をむさぼるように読んだものです。この考え方が、「小さな市場でNO.1になる」という戦略の下地になっていることは疑いありません。
F・W・ランチェスターは、イギリスの航空機工学の権威で、第一次世界大戦での戦闘機同士の戦いに興味を持ち、ある法則を発見したわけです。
「戦闘力は、数の二乗倍に比例する」のです。1対3の戦いは、戦闘力でいえば1対9になるわけです。これなら圧勝です。突き詰めれば、自分の得意な分野や地域で、集中して戦力を投入し、そこでNO.1になることこそ、中小企業の生き残る道とも言えるわけです。

《バブルとやすらぎのない心》

一生懸命仕事をしていると、だんだんと会社に勢いが出てきて、売上も上がりだし、社員数もぐんと増えだしてきました。なんとなく不動産が高値で売れ出し、変だなあと思っていたのですが、実はバブルの風が吹き出していたのです。
社員数はどんどん増えていきましたが、当時私は30代前半。銀行に対する信用はそんなにありませんでした。つまり莫大な借り入れはできなかったということです。後から考えると、これが幸いし、生き残ることができたわけです。
売上は伸びていったのですが、心には"やすらぎ"がなく、いつもせっつかれている気持ちばかりがありました。社員には、学校時代の友人や後輩が多かったのですが、トップである私は、なんとなく彼らから浮き出てしまい、その葛藤に悩んでおりました。
西洋の言葉に、「悪魔は芸術を理解しない」ということわざがあるそうですが、まさにそのとおり。芸術を楽しむのには、心の余裕が必要です。芸術のみならず、すべてのことに対して、いいかげんで中途半端でした。
実際、仕事に対してすら、単に金儲けの手段としか捉えていなかったように思います。バブルの頃は、億の利益が出たこともありますが(なのにどうしてその後倒産しかかるのでしょう?)、それと比べれば、ぐんと少ない利益の今のほうが、会社も私個人も、ずっと中身の濃く深いものになっているという自信があります。
当時、幸田昌則さんが主催する『ネットワーク88』という勉強会に入っていました。力のある会社の若手経営者が多く、「よし、おれもやるぞ!」と刺激を受けたのですが、自分には自分の生き方があることに、その頃は気づいていなかったのです。

《そしてバブル崩壊へ》

バブル真っ盛りの1989年の秋、東京での勉強会で、幸田さんが「この11月から関西を起点にバブルが崩壊する」と発表しました。後から振り返ると、見事にその予想は的中していたわけです。私も「これは大変」と会社に帰ったのですが、一度動き出した船の方向を一挙に転換させるのは難しいものがあります。
当時、買取仲介もずい分していたので、それをとにかく売り切ってしまおうとしたのですが、「原価が安いから、少々値が下がっても大丈夫ですよ」と社員から逆に説得される始末。こちらも自信を持って言っているわけではないので、方針が中途半端になってしまいました。

《反省と気づき》
バブルの頃、「こんなことがいつまでも続くはずがない」と気づいて、さっと手を引いたり、バブルには一切乗らなかった企業や人もいるようですが、立派としか言いようがありません。私自身は、バブルの状態が永久に続くような錯覚に陥っていました。
バブルの反省はいろいろとあるのですが、そのひとつにまわりのことを気にしすぎたということがあります。他人が大儲けしていると聞いては、自分もそうしなければ無能のように感じたものです。人は人、自分は自分なのです。
バラはバラ、スミレはスミレなのです。バラにはバラの美しさがあり、スミレにはスミレの可憐さがあるのです。スミレがバラのまねをしてはいけないし、バラがスミレであってもおかしい。それぞれに幸せがあるわけです。他人の成功を手に入れようとしてはならないのです。要は自分にとっての最高の成功とは何か、ということなのです。
これが分を知る生き方なのかもしれません。自分の器を知り、やるべきことを淡々とやっていくとき、実はそこに最高の幸せが隠されているように思うのです。虚栄心や嫉妬心を排したところに、満たされた世界がゆったりと存在しているのは事実のようです。
もうひとつバブル時の失敗は、社員の数を増やしすぎたことです。バブルの頃は、物件が手に入りにくく、売買仲介が成り立ちませんでした。どうしても自社で買い取っていかなければ、売るものがなくなってしまうわけです。売るものがなければ、社員を養っていくことができず、どうしても無理をしてしまいます。
バブル崩壊後、売上が10分の1になり、莫大な借入れが残り、社員も大量に辞めていき、経営的にも、精神的にもずいぶん追い込まれました。36歳、37歳、38歳はわが人生最悪の時期でした。よく生き延びたものです。

《運命が開ける》

そんなとき、ある人から『鍵山秀三郎』という名前を初めて聞きました。1週間後、偶然に別の人からやはり『鍵山秀三郎』という名前を聞いたのです。何かよく分からないけれど、会社の掃除を徹底されていて、なんとなくすごそうな人なのです。これはご縁ある方に違いないと、住所を聞いて、"ファンレター"を出すことにしました。1枚だけでは迫力がないので、一度に3枚出しました。
きっとご返事をいただけるに違いないという確信はあったのですが、はたしてご丁寧なご返事を頂きました。平成3年8月のことでした。その時から、私の運命は音を立てて動き出したのです。
この10年間に270枚以上のお葉書を鍵山先生からいただきました。そのどれもが実にすばらしい内容なのです。1枚1枚の葉書から、どれほど多くのことを学んだことでしょう。私自身の生き方、そして会社の方向が根本的に変わりました。
「人と人との出会いは、一瞬早くもなく、一瞬遅くもなく、どんぴしゃりのところで巡り会う」とは森信三先生の言葉ですが、運命的な出会いというのは、まさにそのとおりだと思います。

《掃除が会社を変える》

鍵山先生にならって、私も毎朝掃除を徹底することにしました。朝6時半に出社し、7時から1時間半ほど掃除をしだしました。もう10年間続けたことになります。早朝の掃除は、決して苦痛ではなく、本当に楽しいものです。掃除を始めたけれども続かなかったという経営者の方がごくたまにいるのですが、その原因は出社時間が遅いからだと思います。
「朝が早い」のと、「掃除」とは一体になっていて、ついでに言えば、「繁栄」も「やすらぎ」もその仲間なのです。掃除が続かなかったという人を見ていると、朝8時前後にしか出社していないようです。掃除は別としても、朝早く出社すると、ものすごく能率が上がります。
「倒産しない会社にひとつだけ共通点があった。それは、経営者が朝7時半までに出社していることだ」との話をセミナーで聞いたことがあります。自分は経営者としては、どうせ大したことはないのだから、せめて形だけでも一流になろうと朝型の生活を始めました。
朝9時前に出社していたのを7時半にし、そして鍵山先生を知ってからは6時半にしました。よく不動産販売会社で朝9時半から店を開けているところがありますが、これはまことにもったいないと思うのです。朝の20分は昼の1時間、そして夜の2時間に匹敵します。朝わずか1時間ほど早く出社すればすむものを、それをしないで夜10時11時まで仕事をしている。自己満足としてはそれでいいのかもしれませんが、やはり生き方としてまちがっているのではないかなと思うのです。

《掃除には繁栄の神様がついている》

最初の3年間は一人で掃除をしていました。鍵山先生のような人格者のもとでも、3年間は社員の人はだれも手伝わなかったそうです。先日、掃除を始めて3年目になる経営者の方が、「社員の中で手伝ってくれる人が出てきました」とおっしゃっていました。どうもこの3年というのは、ひとつの法則性があるのではないかと思っています。
掃除には繁栄の神様がついているのはまちがいなく、掃除すること自体とても気持ちいいものなのですが、「自分一人こんなにがんばっているのに、どうしてほかの人は手伝ってくれないのだ?」という心境になるときが初期の頃に必ずあります。いわば掃除の魔境でもあります。この時期を越えると、「今日もこうして無事に掃除ができる。こんなにありがたいことが他にあるだろうか」という気持ちになってくるから不思議です。
今はけっこうたくさんの社員が、朝早くから掃除をしてくれています。決して強制ではなく、一度掃除の醍醐味を知ると、ハマってしまうこと請け合いです。ごくたまに社外から、掃除の研修に来られることすらあります。
掃除をしていると、店も明るくしたくなります。経営コンサルタントの一倉定先生の本を読んでいたら、「店は1,000ルクス以上必要だ」と書いてありました。小売業など店を明るくするだけで、売上が増えるそうです。店の明るさには自信があったので、「こんなの楽勝」と思い、照度計で測ってみたら、1,000ルクスを割っていました。蛍光灯を3割ほど増やし、今は相当明るいお店になっています。

《3つの危機を体験》
私の会社人生で、今まで3つの危機がありました。ひとつはバブル崩壊(これが一番きつかった)、そして阪神大震災と長期入院です。
平成7年1月17日5時46分、私は朝風呂に入っておりました。湯船が何度も50cmほど左右に揺さぶられました。地震が終わった時、これで街は壊滅状態になったに違いないと思いました。結論から言うと、私の家と会社は潰れずに残り、無事でした。実を言うと、この前の年の12月に、会社、個人ともに借入れを全部返し、無借金になっていました。つまりバブルの清算は全部済んだところだったのです。これがなければ、建物は無事でも、経営的に破綻していたに違いありません。
地震後の1週間ほどは、賃貸住宅を借りにくるお客さんで店内はごった返しました。人の役に立ち、御礼を言われ、そして手数料という形で当社も潤うわけです。そこに商いの原点を見た感じがしました。
実は地震のときに、足にけがをし、病院へ行きました。患者の手当てにてんてこ舞いをしているお医者さんや看護婦さんの姿を見て、「こういう非常時に役に立てる職業の人はいいなあ。それと比べると不動産屋は役に立たたんなあ」と思っていたのです。それが予想を裏切り、ものの見事に人の役に立てたのです。それまでは不動産業というものに、あまり誇りを持てなかったのですが、これ以降、俄然その存在に自信を持つことができました。
大地震後しばらくは、自然現象のあまりの恐ろしさに、人々はけっこう助け合っていたのですが、時がたつにつれ、だんだんとわがままも出てくるわけです。深刻な問題がいくつも出てきました。人間、一度に受けられる深刻な問題は、2つ半ぐらいが限度ではないかと思います。5つも6つも重なってくると、神経が歪(いびつ)になってくるのがよくわかります。
しかし私は逃げませんでした。自分でもよくがんばったと誉めてやりたい気がします。ここで逃げていては、今の自分も、今の出口地所もなかったと断言できます。あの経験は二度と味わいたくないと心底思いますが、それらの苦難を乗り越えた後、ぐんと成長した自分がありました。

《長期入院の焦り》

もうひとつの危機、それは結核による長期入院です。それまでの私は、「甲種合格、無茶苦茶健康体」でありました。「病気になるやつはアホや」くらいに思っていました。尋常でない"しんどさ"が続き、家内に無理やり医者に連れて行かれると、即入院とのことでした。入院先での検査の結果、結核のため別の病院に長期入院しなければならないと分かったときは、暗澹たる気持ちになりました。44歳の誕生日でした。
6人部屋には参りました。しかも隣のベッドはヤクザのおっちゃん。だいたいがまともな生活をしていると、結核などにはかからないのです。ということは、まともでない生活者が集まってきているわけです。普通のサラリーマンを捜す方が難しいのです。食堂に集まっている顔ぶれを見ていると、品のある顔なんてひとつもありません。自分もその中の一人なのかと思うと、さすがにがっくりきました。
もうひとつの苦しさは、退院の目処がいっこうに立たないことです。同室の人の入院期間を聞いてみると、半年から6年。中小企業の経営者がこんなに長い間入院していて、会社は大丈夫なのかと思うと、ものすごく焦るわけです。焦っても、入院先では何ができるというわけでもなく、精神的にはまことにつらい日が続きました。
 しかしこの体験のおかげで、ずい分人間的に深まりました。以前ほどすぐに怒らなくなりました。今までの生き方を反省し、ゆっくりと着実にやっていくことにしました。当たり前のことが、当たり前にある、当たり前にできるということが、実はとてもとてもありがたいことでもあるわけです。入院中に「凡事感謝」という気づきも得ることができました。

《3つの基本方針―その1.地域密着》

さて、当社には3つの基本方針というのがあります。地域密着、不動産専業、堅実経営がそれです。この方針を打ち出してから、経営がぶれなくなり、安定と繁栄を得やすくなったような気がします。
地域密着は街の不動産屋にとって、耳にタコができるぐらい聞かされているものです。しかし自分達の営業エリアはここまでだと決め、そのなかで密度の濃い営業をやっているところは少ないように思います。
私どもは営業エリアを宝塚市内と定めました。この中で、チラシも看板も営業活動も全部集中させるわけです。逆に言えば、宝塚市からは一歩も出ないということでもあります。宝塚市ではムチャクチャ有名、隣の市では誰も知らない、そんな会社になろうと思ったのです。
目指すはエリアの中での圧倒的NO.1です。コツコツと管理物件を増やし、自社の看板をつけていきました(看板をひとつ増やすたびに、私は無上の喜びを感じる体質になっております)。今では間違いなく、宝塚市内で看板数が一番多い会社になりました。
この看板効果というのは絶大で、集客力がものすごくアップします。ついでに言うと、当社は不動産業では日本一きれいな店舗を目指しており、とにかく会社にさえ来ていただければ、初めてのお客様でも安心していただけるようです。
地域密着とは、「田舎の大将」、「井の中の大蛙(かわず)」を目指すことでもあります。大手不動産会社には、全国規模では負けることがあっても、自分の営業エリアの中では絶対に負けないというのが基本戦略でもあります。もし自社の営業エリアの中に、強力な競合相手が現れたときには、それに立ち向かうというのもひとつの手ですが、逆に、負けないところまで自社の営業エリアを狭めるという手もあります。

《3つの基本方針―その2.不動産専業》

基本方針の2つ目は、不動産専業です。とにかく不動産に絞って営業していくということです。小さな会社で、あれもこれもとやっていっては、「虻蜂取らず」になってしまいます。不動産といっても、その底はとても深く、いくらでも勉強していくことがあるはずです。こと不動産では、どこにも負けない知識とノウハウを取得したいと思っています。優れた専門医、名医のもとには、口コミでたくさんの人が診察を受けにきます。"不動産の名医"が当社の目指すイメージでもあります。
優れた技術を持っていると、競合することも少なくなります。販売会社を経営しておりながら、私自身は人と競い合うことが苦手です。低いレベルでの営業競争よりも、高いレベルでの知識やノウハウで、お客様や世の中に役に立ちたいと思うのです。
建築業は、不動産を扱っていると、わりと手を出しやすい分野ですが、当社は不動産業一本で行こうと思っています。だいたい私に建築の専門知識がないわけですし、今から勉強してもとても一流になれるとは思えません。ならば、いらぬ色気を出さずに、不動産業にもっともっと力を入れ、その分野での超一流を目指したいと思うのです。
不動産専業とはいえ、その周辺業務、たとえば保険やリフォームは、自社で取り扱えるようにしております。他の業務は出来るだけアウトソーシングしていきたいと考えています。要は、自社の本業以外のところでは人を雇わないということでもあります。

《3つの基本方針―その3.堅実経営》

基本方針の3つ目は、堅実経営です。「会社をむやみに大きくしない」と「無借金経営」がこれにあたります。
自分の器と市場の大きさに合った規模というのがとても大切です。人間は、自分の器に合った生き方をしていくと勝手に幸せになるようにできているのです。
日本マクドナルドの藤田田(でん)社長は、商売の天才だと心底思いますが、そのセミナーを聞いていて、とても印象に残った言葉があります。「商売には、満塁ホームランはありえない」とあの天才にしてこの言葉。一歩一歩仕事を押し進めていくところに、商売の基本があるのかもしれません。フォアボールやバンドやシングルヒットの積み重ねしかないとすれば、能力の乏しい私など逆にほっとしてしまうのです。
何代も続いている老舗には、「天の蔵に徳を積んでいく」という考え方があるようです。先代が築いてきた徳によって、今の店がある。ならば自分も後世のために徳を積んでいこうというものです。
今までは社員数や店舗数の多さが立派な会社の指標でした。今はいかに少ない人数で、効率的で底力のある会社を創り上げていくかが大切になってきました。売上の大きさではなく、利益やキャッシュフローの健全さが問われます。
無借金経営もこの先貫いていくつもりです。逆に言えば、借金しないとできない事業には手を出しません。無借金だと、当たり前のことですが、非常に倒産しにくいわけです。 
実のところ、当社もずっと無借金だったわけではなく、バブルの頃は人並みに相当の借入れをしていました。売上が激減する一方、借入れと不良在庫のみが残るという経験は、もう金輪際ごめんです。いつも大きな石をおなかの中に入れているような感じと言えば、経験者の方はおわかりですよね。

《得意な分野で勝負》

以上、地域密着、不動産専業、堅実経営が当社の3つの基本方針なのですが、これにより、やるべきことが絞られ、はっきりしてきます。
地域密着により他地域への進出をカットされ、不動産専業により多角化をカットされ、無借金経営によりデベロッパーや分譲業への道はカットされます。そうすると、宝塚市内で生き残るしか方法がなく、建築業や小売業を営むわけにはいかず、職種も自ずと仲介や管理やコンサルタントに絞られてくるわけです。
要は、「自分の得意なことで勝負せよ!」なのです。そこに、持てる力のすべてを専念させるしか生き残る方法はないと思うのです。限られたヒト、モノ、カネ、時間をひとつのところに集中させていけば、自ずと道は開けていくに違いないと確信しています。
3つの基本方針は、平成7年の阪神大震災の頃から打ち出したのですが、それにより会社がぐんと充実しだしたのは事実です。しかしながら市場の動向により、売上がどうしても上がらない、あるいは下げ止まらないという状態が出てくることがやっぱりあります。そんな時に「起死回生の一手でこういうのがあります」と言えれば、私もかっこいいのですが、現実はどうもそういうわけにはまいりません。

《アカンときにはアカンなりのやり方が》

今までは何とか売上を戻さなければと焦っていたのですが、最近は「アカン時には、アカンなりのやり方があるのではないか」と思うようになりました。一番手っ取り早いのが、経費を下げるやり方です。
経費を下げると言っても、もともと当社には交際費のような冗費は少ないのです。私自身ゴルフもしないし、飲みにも行きません。当社のお客様の99パーセントがエンドユーザーですから、広告費は要っても、交際費は要らないわけです。
仲介と管理が営業主体だと、人件費と広告費がメインの経費となります。人件費の方は、社員数が15名から12名になったことで2割カットできました。広告費の方も、毎月定期的に入れていた新聞折込みチラシを取りやめました。スポット的なチラシは今でも入れるのですが、それも印刷屋さんに頼まないで、輪転機を使い自社で刷り上げてしまうようにしました。投込みチラシも、輪転機と紙折り機とで作ってしまいます。安くて、早い。そして何よりも、無駄なチラシを作らなくなりました。
毎月の損益分岐点がどんと下がると、経営的にも精神的にも本当に楽になります。契約件数を気にすることも少なくなり、社員にも無理を言わなくてよくなります。その分お客様にサービスできれば最高です。

《当社のIT革命》

ITについてお話ししたいと思います。
私自身は文科系中年"機械に関心ない"ビジネスマンです。3年ほど前までは、「自分は一生パソコンを使わないだろう」と思い込んでいたぐらいです。ところが2年ほど前に、ふと「社内パソコン教室」をやろうと思い立ち、外部から先生を呼んできて、週に1回、夜2時間を半年間、社員のほぼ全員で続けました。
結論から言うと、これが当社のIT革命に大いにプラスになりました。ただしその年はみんなが"仕事をせずに"パソコンと向かい合ったので、営業成績はガタガタでした。パソコンを導入すると、そういう時期もあるのかもしれません。
私はなんでも本から入っていくタイプなのですが、IT関係の本も100冊ほど読みました。技術的なことは今でもわかりませんが、ITの"哲学"的なところはよくわかりました。
私自身はパソコンを具体的にどう活用しているかと言えば、まずデジカメです。必要な枚数だけ、すぐに現像できるので、こんな重宝なことはありません。今まで現像代で月に1万円近く使っていたので、これも助かります。デジタル情報は送ることも簡単だし、長く保存していても劣化しません。それだけでも革命的なことだと思います。
文章を書くのも、今までは3Bの鉛筆を使って、原稿用紙に向かっていたのですが、今は直接パソコンに向かいます。原稿を書くと、どこかで誰かが活字化する手間がいったのですが、それがすっかりなくなりました。私はある新聞にコラムを書いているのですが、今までは手書きの原稿をファックスで送っていました。新聞に載ったときに、ごくたまにミスプリントがあったりしたのですが、今はパソコンで打った原稿をメールで送り、それがそのまま新聞に載ることになります。
メール自体ももちろんよく使っています。特に海外にいる方との連絡は、メールに限ります。あるクレームを、メールをていねいに打つことによって解決したことがあります。昨年はメールによる物件の問い合わせは、90件ありました。いくつか成約したものもあります。
国際情勢の記事や語学の勉強用メールも届くようにしています。メールマガジンも今後ひじょうに面白い分野のひとつだと思っています。できれば近い将来、自分も書き手の方に回ろうと考えています。
インターネットは、本の検索や飛行機の時間を調べるのによく使います。もちろんレインズでの物件の検索も行っています。ただしいろいろなホームページを覗いて遊ぶことはあまりなく、目的もなくぶらぶらインターネットをしていると虚しくなってしまう方です。
会社のホームページはもちろん立ち上げており、ここさえ見てもらえれば、出口地所のすべてがわかるようにしたいと思っています(早い話が、会社の地図は必要不可欠です)。会社案内や物件検索、はたまた社歌まで音楽つきで載せています。毎月発行しているミニコミ誌の記事もそのまま掲載できるようにしました。すこしずつ改良して、充実したホームページにしたいものです。

《デジタル化でデータベース》

社内IT革命の副産物で、すごく合理化できたことがあります。不動産仲介会社にとって、間取り図を描く作業は避けられないものです。実際ものすごく時間と手間がかかります。これを1件1,000〜1,500円ほどで代行してくれる会社を見つけました。しかも全部デジタル情報になるのです。ということは、データベース化でき、保存も検索もできるということです。今ではチラシの原稿作成も自社でごく簡単にできるようになり、それをやはり自社で印刷してしまうので、チラシのスピードと機動性は格段に向上しました。
日本でインターネットを使って一番成功した例は、松井証券ではないかと思うのですが、投資用不動産や不動産証券化商品はとてもインターネットになじみやすいという気がしております。