阪神大震災―――かく闘えり
 
5時46分、私は朝風呂に浸かっておりました。
最初、カタカタと揺れ「あれっ? これは少し大きいぞ」と思う間もなく、思いっ切り激しい振動となりました。
家がギィーギィー鳴っていました。
「うそだ、うそだ!」と叫びたくなるような気持ちでした。
本当に悪夢を見ているとは、このことでしょうか。
「どうか何事もなかった10分前に戻して下さい!」と真剣に願いました。

地震が終わったとき、これは傲慢な人間に対する天からの警告だということが、はっきりと分かりました。
自分の生き方を悔い改め、神様に許しを乞いました。
私は、上下の揺れはほとんど感じませんでした。
横の揺れのみ、それも東西への揺れのみ感じました。
左右に50pずつ、計1mほどの横揺れが激しく続き、それをそのまま湯舟の中で体験いたしました。
これで、もう街は壊滅状態だろうなと、ぼうっと考えていました。
地震の後、すぐに停電となり、あたりは真っ暗となりました。
まだ夜明け前です。
風呂から飛び出し、服を捜すのですが、いろんなものがグジャグジャに落ち、下着がどこにあるのかなかなか分からず困りました。
幸い家族は無事でした。
スリッパを履かずに、裸足で廊下へ出たために、割れた花瓶か何かで足の親指の先をえぐってしまい、血が止まらなくなってしまいました。
後々、これがけっこうハンディとなりました。
次の地震のときには、まずスリッパを履くようにしたいと思います。
普段、懐中電灯がどこにあるかなど、ほとんど覚えておらず、これも反省点のひとつであります。
庭に出てみると、燈籠が見事に全部倒れていました。
母屋に住んでいる両親の無事も確かめると、会社のことが非常に気になり出しました。
この時点で、電気・ガス・水道は全部ダメで、特にガスは、メーターが思いっ切りカラカラと回り、ガスの臭いが、あたりに充満しておりました。
家から会社まで歩いて5分ほどです。
「パパ、お願いだから早く帰ってきてね」の声を背に、会社へ向かいました。
途中にある大型分譲マンションも、けっこう傷みが激しそうで、住民の人達が「大丈夫ですか」とドアをたたいて回っていました。
会社は駅前の大型ビルの一階にあります。
いつも出入りしている通常口は暗証番号でドアを開けるのですが、停電で入れません。
これには弱りました。
ビルをぐるっと回ってみると、他の入口のガラス戸がはずれてしまっているところがあり、そこから侵入しました。
ビルの中は、至るところで水漏れがし、まるで「ポセイドン・アドベンチャー」の世界でありました。
会社の中は、植木や資料入れなどがあちこちで倒れていましたが、一番大きくて壁一面にはめこんでいる書棚が全く被害がなく、中の書類も整然とそのままの状態でありました。
これは誠にラッキーでした。
これが、ムチャクチャに散乱しているようなことがあれば、仕事への取りかかりはもっともっと手間と時間がかかったことでありましょう。

地震に際して思うことは、まず家が潰れてしまってはどうしようもないということ。
今回の震災で亡くなった方を見ても、圧死が圧倒的でありました。
本来、身を守るべき住まいが、凶器となってはたまりません。
まず家が潰れないこと――これは鉄則であると思います。
たとえ、死んだりケガをしたりすることがなかったとしても、家が潰れてしまったのでは、地震後の生活というものが全く違ってきます。 
屋根瓦が落ちるか落ちないかだけでも、後の手間――それに費やすエネルギーが随分違うわけです。
地震後の状態を考えますと、応急修理すらなかなか困難な状況が続きました。
まず電話がつながらない。
仮に大阪の業者に頼むのであれば、道路が混んでいて、宝塚まではとてもじゃないが来ることができない。
大阪から宝塚へ来るには、ふだんなら1時間以内のものが、地震から1週間ほどは、片道10時間はかかったのではないでしょうか。
10時間かかれば、もうそれだけで一日は終わってしまう。
要するに、どうしようもない状態が続いていたわけです。
先ほどの屋根瓦の例をとりますと、とりあえずはビニールシートを屋根に張らねばなりません。
ビニールシートをどこで手に入れるか?
そして、それをどういうふうに屋根にかければいいのか?
自分でできそうもないのなら、どこに頼めばいいのか?
普段、こんなことを考えたこともないわけですが、みなさんなら、どうされますか?
私どもの例でいえば、何人かの、前から知っているお客様(たいていは家主さんでしたが)から、シートかぶせのご依頼を受けました。
当社には、管理専門の社員が1人います。普段は管理物件の巡回を主な仕事にしています。
もう1人、当社の内装や外構の工事を一手に引き受けてやってくれている人がいて、この2人で、緊急機動部隊を結成しました。
この緊急機動部隊が東奔西走して、シート張りなどをこなしていってくれました。
これは本当に助かりました。 
不動産屋など、普段は偉そうなことを言っていても、いざとなったら何もできません。
肝心なときに口だけでは、全く役に立てません。
文字通り、手足となって動いてくれる人間がいないと、どうしようもないわけです。
とにかく、応急修理をしなければいけない分については、この緊急機動部隊が大活躍してくれました。
これにより、営業担当者は安心して営業に打ち込むことができました。

地震の当日は、私を含め5人の社員が出社いたしました。
もっと正確に言えば、5人が辿りつけたということでもあります。
会社に来ても、電気がつきません。
電気がつかないと、仕事というのは、全くできないのだということに改めて気がつきました。
まず室内が暗い。
当社の電話も、電気がないと正常に使用できないシステムなのです。
停電なんて、もう何年ぶりのことでしょう。
コピーひとつ、とることができません。
だんだん水道も出なくなり、もう仕事どころではありません。
女子社員2人に、何でもいいから、食料を買ってきてほしいと依頼しました。
残った男子社員3人で、社内の片付けです。
ラジオをつけっぱなしにして、震災の情報を得るようにしました。
買い物に行かせた女子社員がなかなか帰ってこず、心配したのですが、ようやく帰ってきたとき、手にしていたのは、せんべいとヨーグルトだけでした。
話によると、どこへ行っても店が閉まっており、何とか1軒だけ、コンビニエンスストアが開いていたということでした。
店内は、割れたお酒やジュース類により、異様な臭いがしており、食料品はほとんど何も残っていなかったそうです。
レジの前には、長い列ができており、店の人は、停電のため電卓でいちいち料金を計算し、余計に時間がかかったようです。
買ってきたせんべいとヨーグルトを5人で分け、臨時休業の貼り紙をして、帰路に着くことにしました。

家に帰り、どっと疲れが出てきました。
電気も、ガスも、水道も、電話も、車も、電車も、何もかもが使えないわけですから、どうしようもありません。 
暖房器具がないため、居間でガタガタ震えていました。
今から思えば、少し熱があったのでしょう。
足の親指のケガの方も、血が止まりません。
ガーゼで傷口をふさぐのですが、靴下が血ですぐに真っ赤になってしまいます。
何枚もの白い靴下をダメにしました。
何か無気力になり、何もする気がおこりません。
普段はムチャクチャ元気でけっこう働き者なのですが、何か全然アカンのであります。
外へ出て行けば、倒壊した家屋から人を救助するような、きっと自分の体力が必要とされるところがあるに違いないと分かっていながら、何もする気がおこらないのです。
これは、今でも、心の傷として少し残っています。

地震があって、何かしら、人が互いにやさしくなったような気がいたします。
100人いれば、90人ぐらいの人は、みんな助け合う気持ちになり、人に対し、とても親切になったのではないでしょうか。 
地震という、人間の力ではどうしようもない巨大な力の前では、人というのは謙虚にならざるを得ません。
みんな同じ被災者なんだという一体感――これは確かにあったように思います。
地震の後、略奪や暴動のような行為が皆無であったという事実は、日本人の民度の高さを示すものですが、人々が互いに助け合うというすばらしい一面が発揮されたのは、この一体感からであると思います。

家に帰ってしばらくは、ぼうっとしていました。
まだこのときは、営業再開後、あんなに忙しく、肉体的にも精神的にもハードな日々がやって来るとは、夢にも思っておりませんでした。
1ヵ月ぐらいは、仕事ができなくても仕方がないなあと思っていたぐらいです。
1ヵ月ぐらい売り上げゼロでも会社は潰れないだろう程度の計算はしておりました。
地震の前の年末に、会社・個人それぞれで所有していたマンションを1室ずつ売却し、その代金で、最後まで残っていた借入金を返済しました。
会社・個人ともに、十何年ぶりかで無借金となりました。
無借金というのは、非常に気が楽なものです。
実際のところ、気分はルンルンであります。
こういう非常事態に遭遇すれば、なおさら無借金のありがたさが分かります。
営業ができないかもしれないと思いながら、何となく楽観的だったのは、やはり借入れゼロということが、大きな影響をもっていたに違いありません。

1月17日の朝食は食べられませんでした。
昼食も抜きで、何とか食べ物を確保せねばと、息子と2人で外へ出て行くことにしました。
宝塚歌劇へ向かう『花の道』の商店街の建物は、見事に潰れていました。
建物が大きく傾いたり、2階が1階になったり、古い木造が跡形もなくメチャクチャに壊れていたり、それは見事なほどでした。
宝塚南口駅まで来ると、ラッキーなことに、サンドイッチ屋さんが開いておりました。
家族と両親の分を買い求めることができ、ほっといたしました。
しばらく歩くと、お弁当屋さんにずらりと人が並んでいました。
誰も口をきかず、不安そうな面持ちで、しかし整然と並んでいました。
途中、鉄筋コンクリートでできた会社の寮が斜めに傾いていました。
1階を駐車場にし、その上をマンションにしている分です。
1階部分がペシャンコになり、何台もの車がその中で潰されていました。
1階を駐車場にしているマンションが倒壊している例を、この後いくつも見ました。
1階を展示スペースにしていた自動車屋さんの、5階建ての立派なマンションも、見事に45度の角度で傾いておりました。

1日目の夕方、何と電気がついたのです。
本当に感激でした。
電気がつくと、明るくなるし、暖かくすることもできます。
地震の後、強く感じたのが、日常性の幸福、平凡の中のしあわせ、でありました。
当たり前のことが当たり前のようにある。
当たり前のようにできる。
これは実に幸せなことであります。
朝起きて、家族が無事に寝ている。
スイッチを入れたら電気がつく。
蛇口をひねれば水が出る。
お風呂に毎日入ることができる。
健康で、食欲もあるし、食事もできる。
こんな当たり前のことが、当たり前でなくなったとき、どれだけ、当たり前のありがたさが分かることか。
この当たり前が、実は最大のしあわせでもあるということが、痛いほどよく分かりました。
それを思うと、本当に感謝の毎日であります。

鍵山秀三郎先生は「凡事徹底」ということをおっしゃっています。
平凡なことを徹底的にやり続けていく、という意味です。
具体的には掃除です。
掃除などは、やろうと思えば誰でもできる。
しかし、それを徹底的にやり続けていくと道が開け、運命まで回転しだすわけです。
鍵山先生は、掃除は雑事ではない、雑にやるから雑事となるのだと看破されています。
誰でもできることを、誰にもできないくらい徹底していく。
一日一日のほんの僅かの差が、長い年月の間に、もう追いつきようのないぐらいの絶対差となっていくのです。
とまあ、「凡事徹底」の説明はここまで。
私はこの平凡の中のしあわせを「凡事感謝」と呼び、これからはけっして忘れることのないようにしようと思いました。
凡事感謝――しあわせも、神様への信仰も、他者への貢献も、すべてここからの出発であると思います。
三浦綾子のエッセイを読んでいると、本当にここのところがよく書かれています。
ふつうの日常生活の中に、すごい感謝を見出して生きておられる、という感じなのです。
三浦綾子のご主人の三浦光世という人も、まさに敬虔なクリスチャンという言葉がぴったりなお方であります。
キリスト者としてのその生き方に胸打たれることがたびたびあります。
感謝の祈りを欠かされないのです。
あるとき、若い2人の女性が三浦家へ遊びにきました。
一緒に食事をしようということで、例によって食前のお祈りを、ご主人がささげられた。
食前のお祈りなんて、そんなに長い間するものではありません。
なのにお祈りが終わったとき、この2人の若い客人の目には、感動で涙がいっぱいたまっていたとのことです。
それを見て三浦綾子は、自分達が常日頃ふつうにしている祈りに、こんなに心揺り動かされる人がいるのかという新しい発見に、逆に胸を熱くしたということでありました。
「凡事徹底」と「凡事感謝」――この2つのことを、それこそ徹底すれば、人生けっこういい線いくし、それに相当立派な境地にも到達できるんじゃないかなと思ったりいたします。

さてさて、電気がつくということは、テレビも見られるということです。
テレビは震災一色。
相当ひどいという感じでした。
とにかく死者の数が百人単位でどんどん増えていきます。
自衛隊が出動しないとどうしようもないなあと思いました。
ふと、国はどう対応し、どう行動していくのだろうと考えました。
国といえば、首相。
首相といえば、村山さん。
この顔がパッと浮かびました。
「こりゃ、たぶんダメだ。国に頼らずに自分でがんばっていかなければ!」
この連想は、きっと私だけではなかったはずです。
国への依存心が消え、かえってよかったかもしれません。
もし時の首相が、田中角栄さんだったら、死者6千人のうち、2千人ぐらいは助かっていたような気もします。
中曽根康弘首相、後藤田正晴官房長官、佐々淳行内閣官房安全保障室長――このラインであっても、2千人ぐらい助かっていたに違いありません。
村山さんは、夜な夜な震災の犠牲者達が枕許に現れ、睡眠不足とのこと。
この話は、田中角栄の元秘書の早坂茂三さんが言っているので、本当だと思います。
地震当日、財界人との朝食会を予定通り行い、翌18日も予定通りの日程をこなしている。
17日の朝7時には、緊急対策本部を設置したダイエーの中内さんとは、えらい違いであります。

ここで、地震で男を上げた3つのものをご紹介しましょう。
ひとつは、プレハブ住宅。
もうひとつは、ダイエー系のお店。
最後のひとつは、ボランティアの青年達です。
プレハブ住宅がこんなに地震に強いとは思いもしませんでした。
プレハブ住宅に住んでいて、命を失った人はいないんじゃないでしょうか。
地盤による原因を除いては、プレハブ住宅で、全壊・半壊は皆無ではなかったかと思います。
まわりの古い木造がみんなペシャンコになっている中で、プレハブ住宅だけが、すっくと立っている、そんなシーンは至るところで見られました。
木造がすべてダメかと言えば、無論そうではなく、早い話が、木造の私の自宅は何ともありませんでした。
私自身は、日本古来の木造の家が好きなのですが、今度もし家を建てることがあるならば、プレハブでもいいかなあという気もしております。
新しいアパートは、ほとんどがプレハブです。
積水ハウス、大和ハウス、ナショナル住宅など、「生産緑地法」以後の新築ハイツは、ほとんどすべてプレハブであります。
地元の大工さんが建てた木造のアパートというのは、ここ十年程に関して言えば、1軒も見たことがありません。
アパートの大家さんは、入母屋の立派で大きくて古いお宅に住んでおられることが多いのですが、これがけっこう潰れました。
屋根が重いというのは、地震に際しては致命的でもあります。
大家さんの家は見事に潰れているのに、その隣に建っているプレハブのアパートは何ともなかったというケースが続出しました。
大家さんが、当社に電話をしてこられ、「どこかアパートの空室はないだろうか?」とのこと。
こんな笑うに笑えない話も少なくありませんでした。
たまたま空いていた自分のアパートの部屋に移った家主さんも随分おられます。
大きな家から、小さなアパートへ移り、不便じゃないかなあと思うのですが、こりゃ気楽じゃということで、けっこう機嫌よく住んでおられるようです。
もしプレハブのアパートが軒並み潰れていたとしたら、震災の事後処理は、こんなどころではなかったと思います。
賃貸管理業という私の仕事から言えば、これはとてもありがたいことでありました。
今後は、プレハブ住宅のシェアがどんどん伸びていくに違いありません。
事実、住宅展示場のプレハブ住宅のところには、日を追ってお客さんが増えているようです。
たまたま私の後輩が店長をしているセキスイハイムでは、宝塚展示場の営業マンを5人体制から8人体制に増強したと言っていました。
営業マンにとっては、しばらく休みがとれない時期が続くかもしれません。
しかし、クレームで休みがとれないならおもしろくありませんが、こういう忙しさは、とてもエキサイティングで、やりがいがあるに違いありません。

次に男を上げたもの――ダイエー系のお店。
中内さんが地震後にとった対応の早さは、目を見張るものがありましたが、地震対策へのポリシーも、大したものだと唸らせるものがありました。
ダイエーを今まで、少々ダサイお店であるようなイメージでとらえておりましたが、今回見直しました。
そうでなくても、不安がいっぱいの被災地の人間は、モノが十分に流通しないとなるとパニックになってしまいます。
時間とともに便乗値上げもあったかもしれません。
たとえば、乾電池1個千円で売ろうかという店があったとしても、ダイエーの店が夜10時まで開いており、そこで1個2百円で売っているとしたら、たちまちのうちに、2百円の元の値段にまで下がってしまいます。
とにかく、商品はどんどん供給するというダイエーのトップの強い意志を、従業員もお客さんも感じ取っておりました。
また、事実そうでありました。
「ダイエー系のお店の立ち直りは本当に早かった」と家内も言っておりました。
ダイエー系のコンビニエンスストアであるローソンなどでも、店内の食料品は何もなかったのですが、商品を積んだトラックが、あの大渋滞の中、しっかりと補充の配達に回っておりました。
震災でダイエーは230億円の赤字を出したとし、中内さんは、経団連の副会長を辞任しました。
しかし、これはダイエーにとっては、プラスになるに違いありません。
昭和48年の石油ショックのとき、積水ハウスは値上げをしなかった故に、大和ハウスを追い抜いたという話を聞いたことがあります。
非常事態におけるトップの姿勢が、いかに大切かというのがよくわかりました。

地震で男を上げた3番目のもの――ボランティアの青年達です。
残念ながら私は、地震の後本業の方が忙し過ぎて、ボランティアに行く暇もなく、またボランティアの人達が働く現場を直接には見ておりません。
しかし、今の日本の青年達を見直したという声を幾度となく耳にしました。
その活躍は目覚しかったようです。
日本も捨てたもんじゃないかもしれません。
地震の後、ある日、1人の青年が私の店を訪れてきました。
東京の不動産会社の社員の方でありました。
聞くと、十何時間も運転し、社員2人でボランティアに、当地までやってきたとのことでした。
避難所になっている近くの中学校で寝泊りをし、ボランティアに打ち込んでいるとのこと。
私は思わず、その方に向かって合掌いたしました。
ありがたいなあという感謝と、ご苦労様といういたわりと、何とも言えない感動の合掌であります。
私は本当にびっくりしました。
だって、不動産屋がボランティアをしているのですよ。不動産屋が!
次、他の地域で何か大きな災害があったときは、「私もきっとボランティアに行こう!」とそのとき固く決意しました。
水でも、食べ物でも、毛布でも、衣類でも、トイレやお風呂の施設でも、それをほしいと思っている人のところへ届けること自体が大変なことなんだということは、今回とてもよく分かりました。
ボランティアでも1人じゃ、その発揮できる力が知れています。
たとえボランティアであっても、組織力が必要だということも、よく分かりました。
ですから、自分がボランティアに参加するとしても、何かの組織に入るべきだと思うのです。
医療の面では、赤十字がとてもたのもしかったということを聞きました。
実務的には、ある宗教団体がとてもがんばった、役に立ったということも知りました。
あしなが育英会が震災遺児を探して歩いたということも聞きました。
今度ボランティアをするとき、どの組織に入ろうかということは、内心決めております。

仕事の話に戻ります。
1月17日は、半日だけ店を空け――実際は、電気が切れて自動扉が開かなかったので開けたとは言いがたいのですが――午後からは臨時休業としました。
1月18日は、水曜日でたまたま定休日ということもあり、一日休業。
1月19日、営業を再開しました。
まだ電車は動いていませんので、何人の社員が会社に辿り着けるかは、はなはだ疑問でありましたが、初日の5人よりは多いだろうと計算しておりました。 
こういう非常事態になると、頼りになる社員とそうでない社員がはっきりしてきます。
正直なところ、男子社員の方が女子社員よりも、圧倒的に頼りになりました。
当社の女子社員は主婦が多いので、会社よりも家庭の方が大事というのは、むべなるところかもしれません。
ただし、男子社員でも、ちっとも頼りにならない人間もいましたし、女子社員でも、何キロも歩いて出社してくれた人もいました。
こういうときに、真価が分かるのかもしれません。

私はいつも朝6時半に家を出、途中、駐車場の鍵を開けたりしながら、会社には6時40分に着きます。  
朝7時からは掃除の開始です。
地震の後の営業再開後も、掃除だけは徹底しました。
ビルの上から落ちてきたガラスをきれいに片付け、店内もトイレも、いつものようにピカピカにしました。
いつもは、朝9時までにお客様が来られるということはまずないのですが、地震後1週間ほどは、朝7時過ぎから店頭が混み出すような状態でした。
店頭が混み出すと、朝礼どころではありません。
とにかく、会社に到着した社員から、ご来店のお客様に対応していかねばなりません。
服を着替えている暇もありません。
スーツ姿では、会社まで辿り着くのも難しい場合が多く、スニーカーをはじめ、とにかく動きやすい服装で出社してくるのですが、そのままで、即カウンターでの接客というかたちになります。
むろん、女子社員も制服に着替える暇はなく、セーターにスラックスという格好が多かったように思います。
カウンターの中の人も外の人も、いわゆる「被災ルック」で商談しているというのも、後から思えば何だか滑稽な気もしますが、そのときはみんな真剣でありました。

地震前は、賃貸物件がかなりダブつきぎみでした。
家賃も下がり傾向で、どうすれば借り手さんがつくか頭を痛めていたのは事実です。
結論から言うと、あれだけ余っていた賃貸物件が3日で全部なくなってしまいました。
被災地での物件がなくなると、とにかく住むところを探そうと、周辺の地域の賃貸物件もなくなっていく。
川西や池田や豊中どころか、京都や堺の物件までいっぱいになってしまったと後で聞きびっくりしました。
被災地の人口が随分減っているに違いありません。
1月19日には営業を再開したのですが、このときには会社は電気と水道とがOKでありました。
これは、本当に助かりました。
仕事もできる、トイレも使える。
おまけに会社には、大型の電気温水器とシャワー室もあり、風呂代わりにもなります。
社員の各家庭の状況より、会社の方がずっと恵まれた環境でした。
家が半壊して住めなくなったところは別として、水道が出ないところもけっこうあり、ガスなどは復旧に1ヵ月半かかりました。
いずれにせよ、会社に出てきた方が快適であるという状態でありました。

会社で温水のシャワーが使えるというのは、とてもありがたく、大げさではなくエネルギーの源でありました。
寒い時期でありましたから、水で体を洗うわけにはいかないのです。
自宅の方は、結局1ヵ月半お風呂が使えませんでした。
ガスがダメだったからです。
水が比較的早く出たので、ガスくらい我慢して当然だという気持ちでした。
それだけに、久しぶりに家のお風呂に入れたときの感動は格別でありました。

家のお風呂に入れないと、困ることがもうひとつありました。
朝、ベッドから抜け出ることがなかなかできないのです。
目は覚ましているのですが、寒くてベッドから出る気がしないという、まことに情けない状況なのであります。
私はけっこう朝は早く、朝型人間を自負していたのですが、朝起きてすぐにお風呂に入らないと、しゃきっとしないのであります。
お風呂に入れないとなると、とたんに「あかんたれ」になる自分をベッドの中で再確認する羽目になりました。
冬など、朝起きてすぐお風呂に入り、勉強後冷えた体に暖をとるために、もう一度入ったりします。
午前5時46分の地震のときに、湯舟に浸かっていたというのは、こういうことなのです。

地震の後、ガスも出、まともにお風呂に入れるようになってからは、今までより増して朝の時間が充実してきました。
これまた私にとって、地震が与えてくれた功徳のひとつです。
自分にとっては、この大震災で失ったものより、得たものの方がずっと多かったような気もします。
これまた、神様の計らいであるのかもしれません。
ありがたいことです。

さてさて、地震の後しばらくして落ち着いてからは、朝4時に起きるようになりました。
今までも朝は早かったのですが、午前4時というのは自己最高記録です。
しかもそれが見事に定着しました。
午前4時に起き、お風呂に入ります。(24時間循環装置を設置し、いつでも入れるようにしました)
朝の祈りの後、書斎の机に向かうのが午前4時半。
それから午前6時までの1時間半、読書・勉強・原稿書きのいずれかをします。
この1時間半がまことに黄金時間であります。
この時間が楽しみで、朝飛び起きてしまいます。
早朝のこの喜びを一度知ってしまうと、他のつまらない遊びが色あせて見えてしまいます。
これに比べたら、夜ネオン街をぶらつくことなど百万分の1の値打ちしかありません。
実際、1時間半の勉強の継続がどれぐらい自信になったかわかりません。
私は実務家ですし、仕事の第一線で働いています。
一日13時間程度は会社のための時間です。
勉強時間は朝に限ります。また朝しかとれないのが現実です。
朝の勉強時間を、ふつうの本(経済・経営・政治・軍事・人生観など自分の興味のある本)の読書にあてると、週6〜7冊ぐらい読めます。
不動産の本だと3〜4冊。
税金や法律になると速度が落ち、1〜2冊ぐらいになります。
原稿書きだと、4百字詰め原稿用紙で、週10〜30枚ぐらいのペースです。
これらを継続してやっていくなら、けっこうすごいものが蓄積されるに違いないというのが実感でもあります。

ずっと店内が混み合う状態が続きました。
カウンターで、何組ものお客様が資料を見ながら、当社の担当と話を進めておられます。
地震から2週間ほどは、電話が非常にかかりにくい状態でした。
当社には8回線あるのですが、どのボタンを押しても、通話音のかわりに「只今、電話がかかりにくくなっています。もうしばらくしてからおかけ下さい」とのメッセージが流れます。
根気よく押し続けていけば、何十回かに1回、うまく通話音をつかまえることができます。
通話音をとらえてダイヤルを回せばそれで通じるかと言えば、そうではなくて、何度かけても話し中の通信音が聞こえてくることも多く、相手と話ができるのは、50回のトライに対して1回というぐらいの確率でありました。
FA]も同様で、何度送ってもほとんどダメでした。
お客様がいくら借りたいとおっしゃっても、まずその物件がまだあるのかどうかが分かりません。
ましてや、当社で鍵をお預かりしていない物件など、紹介のしようがありません。
そんなときに、一番力を発揮するのが完全管理の物件です。
これなら、空室かどうかがすべてこちらで把握できます。
他社で決まったりして、二重に予約が入ることもありません。
むろん鍵も手元にあります。
いちいち、オーナーさんに空室の確認をしたり、鍵を取りに行ったりしなければならないのは、非常の場合にはどうしようもないということがよく分かりました。
第一、オーナーさんとの連絡がつかないのです。
「賃貸住宅を探している。どこでもいいから入りたい」という電話が入ると、とにかくご来店いただくようにしました。
電車が全部ダメで、車も大渋滞でしたから、中には、何時間も歩いて来られた方も随分多かったに違いありません。
もともとその物件を知っていて、その場で即決される方もたまにはおられますが、たいていの方は、決める前にやはり物件を見ておきたいわけです。
いちいち案内に行く余裕はありません。
そこでどうしたかと言えば、地図をコピーし、鍵をお客様に渡し、ご自分で見てきていただく方法をとりました。
ただし、誰にでも鍵を渡すわけにはいきませんから、必ず免許証等のような身分を証明するものを提示していただき、そのコピーをお預かりしてからお渡しするようにしました。
この方法で、ほとんどトラブルはありませんでした。
緊急の事態ですから、重要事項説明書も契約書もなしに、お金をお預かりし、鍵を渡していきました。
とにかく細かい書類は全部後回しにしないと追いつきません。
ふつうは、入居者の審査という手続きを踏むのですが、これは私が自分の眼力を信じることにし、その場で決断していきました。
実際のお客様を見ているわけですから、そう難しい仕事でもなかったように思います。
その後の家賃の滞納等のトラブルも出ていないので、判断はそう間違っていなかったように思います。

まわりのお店は、まだ営業を再開していないところが多く、昼食ひとつ食べるにも、とても困ってしまうわけです。
女房に協力を仰ぎました。
地震から1週間ほどは、毎日5合の米を炊いてもらい、おにぎりと、タマゴ焼きやカマボコなどの簡単なおかずの弁当を作って会社まで持って来てもらいました。
これは今でもありがたく思っています。
当社は、阪急電鉄とJRの宝塚駅前が再開発されたビルの1階に入っており、隣に銀行が3軒並んでいます。
私どもは、地震の日から2日後に営業を再開したわけですが、銀行は3軒ともなかなか再開しませんでした。
阪急百貨店も別のビルに入っているのですが、これも営業再開の気配が見られませんでした。
外からは分からないけれど、それぞれに相当のダメージがあったようです。
家は潰れてはいけない――これは鉄則ですが、店が潰れてもどうしようもありません。
まず社員が集まるところがない。
集まらなければ、組織化された力が出ない。
店を再築するのに、これまた相当なエネルギーが必要だ、ということになります。
今回、私は本当にラッキーでありました。
家も潰れず、店も潰れず、しかも、たまたま賃貸という分野を収益の柱にしています。
賃貸住宅が余って余って、本当にどうしようかと思っていたところへ、この地震。
あっという間に、需給の関係がひっくり返ってしまいました。

まわりのお店は、まだ営業を再開していないところが多く、昼食ひとつ食べるにも、とても困ってしまうわけです。
女房に協力を仰ぎました。
地震から1週間ほどは、毎日5合の米を炊いてもらい、おにぎりと、タマゴ焼きやカマボコなどの簡単なおかずの弁当を作って会社まで持って来てもらいました。
これは今でもありがたく思っています。
当社は、阪急電鉄とJRの宝塚駅前が再開発されたビルの1階に入っており、隣に銀行が3軒並んでいます。
私どもは、地震の日から2日後に営業を再開したわけですが、銀行は3軒ともなかなか再開しませんでした。
阪急百貨店も別のビルに入っているのですが、これも営業再開の気配が見られませんでした。
外からは分からないけれど、それぞれに相当のダメージがあったようです。
家は潰れてはいけない――これは鉄則ですが、店が潰れてもどうしようもありません。
まず社員が集まるところがない。
集まらなければ、組織化された力が出ない。
店を再築するのに、これまた相当なエネルギーが必要だ、ということになります。
今回、私は本当にラッキーでありました。
家も潰れず、店も潰れず、しかも、たまたま賃貸という分野を収益の柱にしています。
賃貸住宅が余って余って、本当にどうしようかと思っていたところへ、この地震。
あっという間に、需給の関係がひっくり返ってしまいました。

私は社員に次の日の朝礼で言いました。
「お客様が次から次へ来られ、その対応に大変だと思うが、今回私達の仕事は、人助けなんだ。どうか、できるだけ親切に、テキパキと、ミスのないように対応していってほしい」
不動産屋が、人助けの最前線に立てるという、まことに貴重な体験であります。
この絶好の機会を逃す手はない。
思いっきりがんばろうではないか――そんな気持ちでありました。
実は地震の後、足をケガしたとき、血が止まらなくて困り、その日の夕方に近くの病院へ行きました。
さすがに、ぴたっと血が止まり、大いに感謝したのですが、そのときに、お医者さんや看護婦さんがテキパキと働いているのを見て、とてもうらやましく思っていたのです。
「こういうときに世の中の役に立てる職業はいいなあ。それに比べ、不動産屋というのは、いったいどういう役に立てるのだ?」
そういう思いがありました。
その時は、自分の仕事がこんなに忙しくなるとは、実際のところ夢にも思っていませんでした。
お客様が店に殺到されるのを見て、初めて「あっ、自分達も人助けが出来る!」と気がついたわけです。

私は社員に次の日の朝礼で言いました。
「お客様が次から次へ来られ、その対応に大変だと思うが、今回私達の仕事は、人助けなんだ。どうか、できるだけ親切に、テキパキと、ミスのないように対応していってほしい」
不動産屋が、人助けの最前線に立てるという、まことに貴重な体験であります。
この絶好の機会を逃す手はない。
思いっきりがんばろうではないか――そんな気持ちでありました。
実は地震の後、足をケガしたとき、血が止まらなくて困り、その日の夕方に近くの病院へ行きました。
さすがに、ぴたっと血が止まり、大いに感謝したのですが、そのときに、お医者さんや看護婦さんがテキパキと働いているのを見て、とてもうらやましく思っていたのです。
「こういうときに世の中の役に立てる職業はいいなあ。それに比べ、不動産屋というのは、いったいどういう役に立てるのだ?」
そういう思いがありました。
その時は、自分の仕事がこんなに忙しくなるとは、実際のところ夢にも思っていませんでした。
お客様が店に殺到されるのを見て、初めて「あっ、自分達も人助けが出来る!」と気がついたわけです。

今回の地震で、本来仕事とは何であるかというのがよく分かりました。
殺到されるお客様に対して、私どもは、決して「金儲け」というスタンスでは対応しませんでした。
あくまでも「人助け」という姿勢を崩しませんでした。
やっていることは同じであったかもしれません。
しかし、根本の精神が違います。
社員も本当によくがんばってくれました。
お客様の役に立ち、喜んでいただけて、しかも当社も潤う。
これが本当の仕事なんだということがよく分かりました。
最初に金儲けがきてしまうと何かおかしくなります。
ひょっとしたら、日本全体がそのおかしいところに、今立っているのかもしれません。
人の役に立つ、というのがまず最初にあり、そしてお金がついてくる、というのが本当の姿なのでしょう。
その実体験は、私のビジネス人生の中でひとつの大きな悟りでもあります。
地震はムチャクチャ怖かったけれど、この悟りを得られたということに対しては、ありがたいことだと思っています。

だいぶ後のことになりますが、塾の経営をしている友人と地震のときの話をしました。
彼は、若いにもかかわらず宝塚市内で6ヵ所もの教室を経営しているやり手でありました。
大地震の後しばらくは、もちろん塾も休講でありました。
しかし、必死になって、比較的早い時期に塾を再開しました。
ところが今度は生徒が出てこない。
スタッフと手分けし、一人ひとりの生徒の自宅へ行き、「いつでも勉強できるようにしたから塾へ出てくるように」と言って回ったそうです。
私など親切な塾だと感心してしまいます。
でも実際に出てきたのは、受験を控えた中学3年生のごく一部だけ。
彼は考え込んでしまいました。
「自分は常日頃、教育に携わる人間としてある種の自負を持っていた。誇りを持っていた。ところがこの事態はいったい何だ。ほとんど誰も塾に出てこない。非常事態に、そんなに役に立たない仕事なのだろうか?」
事実、地震の後、生徒数は3分の1にまで減り、6ヵ所あった教室のうち4ヵ所は閉鎖してしまったとのことです。
非常事態に役に立たないと思っていた不動産屋が役に立ち、崇高な使命を帯びていると思われた教育業が、ちっとも力を発揮しなかったわけです。
地震のおかげで、私は自分の仕事にすごく自信をもちました。

当社はわずか15名程度の会社ですから、社員の給料を賄うために、無理矢理、仕事を取ってこなければならないこともありません。
これが社員が百名もいる会社なら、ぼうっとしていては給与が払えませんから、何とかしなければならないわけです。
前年末に、無借金となりました。
金利も払う必要もないし、元金を返済しなければならないこともありません。
まことに、ルンルンであります。
少々の震災がきても、けっこう耐えられそうな気もします。
そういう意味では、耐震性の強い会社かもしれない、と変な自信を持ちました。

営業担当は、殺到されるお客様の対応で精一杯です。
事務の担当も、ひっきりなしにかかってくる電話で手一杯です。
このうえ、クレームで引っ張られてはどうしようもなくなります。
朝礼で「クレームは全部私に振るように」と申しました。
すると、本当にクレームは全部私のところに持ち込まれてしまいました。
生身の人間が受けることのできるクレーム、トラブルは、2つ半ぐらいが限界ではないかと、体験的に思います。
あの史上最強であったアメリカ軍さえも2・5戦略です。
即ち、2つの大きな戦争を抱え、ひとつの地域紛争に対処できるという軍事力。
戦争とクレームとは違うけれど、2・5ぐらいが限度というのは同じことであります。
それを一度に、5つも6つも抱え込むと、少し精神に異常が生じます。
疲れているのに、夜ハッと目が覚め、眠れなくなるなど、随分苦しみました。
悩んだからといって解決するわけではありません。
『人々よ
人生に勝利せよ
成功をこそ実現せよ
何のために悩むのか
悩んで道が開けたか
悩んで幸せになりえたか
悩みを丸めて投げ捨てよ
悩みを川に流し去れ
悩みの中に真理なし
悩みの中に光りなし』
私は、いくつも重なったトラブルをすべて神様に委ねることにしました。
すべておまかせいたしました。
全託できるというのは、これは信仰の強さでもあります。
案外、全託はできないのです。
神様に全部おまかせしているはずなのに、いつの間にか、それを自分のところに取り戻して、元のように悩んでいるということが多々あります。
一度おまかせすると決めたなら、おまかせしてしまう。
小ざかしい人間の分別で解決しようとせずに、すっかりおまかせしてしまい、自分は、やるべきことを淡々とやっていく。
もう、自分一人の力ではどうしようもなくなって、私はそう腹をくくりました。
とにかく、すべて神様におまかせし、どんな解決法を出して下さるのか楽しみにして待とう――そんな心境にまで進みました。
おまかせすると、本当にびっくりするような仕方で解決されていきます。
クレームにもいろいろあり、当社のミスである分については、まず謝るべきであります。
修理すべき案件については、すぐに修理すべきであります。
しかし、中には、どう考えても相手が理不尽な要求をしている、あるいは、今回の地震のように不可抗力な場合は、どうしようもないことがあります。
そんなときは、悩むかわりに、神様にお願いするのが何よりです。
日本神道系の神様の中で一番偉い神様が「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」様と呼ばれる方です。
私は、魂の傾向性が、どうも日本神道系のような気がしております。
日本神道の教えを、漢字1字で表すならば、「礼」であります。
そして雰囲気を一言でいうなら「凛」であります。
日本神道を信奉する者は、立ち居振舞がすがすがしくなくてはなりません。
とにかく、神様にすべておまかせすることにより、私はピンチを脱することができました。

いろいろとトラブルを解決していく過程で、あまりにも理不尽なことを言う人には、とりあえず、思いっ切りケンカするという手もあります。
相手の剣幕に押されて、わけ分からないままに、とにかく"すみませんすみません"と逃げてしまうことも多いのですが、相手の誤りをはっきり言うことも大切かもしれません。
相手は言われないと分からない。
大いにケンカしていくと、ふと心と心が通じ合う瞬間があるものです。
話は決着がつかなくても、仲良くケンカしていこうという気になったりするから不思議です。
思いっ切りケンカして、仲直りして解決していくというテクニックも、この地震以降、どうやら取得したような気もします。
このテクニックは、かなり高度な技で、若い時は無理です。
ある程度の年齢と経験が必要であることは、言うまでもありません。

我が社の管理物件の中で、古い木造のアパートが計4棟、地震で潰れてしまいました。
ペシャンコにはなりませんでしたが、もう住めない状況です。
賃貸契約の目的物件が、居住の用を供さなくなったわけだから、賃貸契約は当然に終了するであろう、ということは何となく分かりました。
その場合、敷金は返さなければならないということは、当然でありましょう。
では、敷引きはどうするのか?
これは、今でも統一の見解は出ていないように思います。
私は、当然敷引きはすべきだと判断しました。
敷引きは、住んでいる間の減耗等の補充という性格を持つものですから、地震には関係なく減耗してきたと解釈されるからです。

地震における解約では、敷引きはすべきだというのが私の見解ですが、実際にはそうはしませんでした。
あらかじめ、オーナーさんの了解をとってから、「本来は敷引きをしますが、今回はこういう事情なので、敷金全額をお返しします。1月分の家賃も、半月分お返しします」ということで、入居者の方々には納得していただきました。

全壊――修理不能――ともいえるアパートが4棟。
それぞれ、8室、8室、4室、4室の計24室でありました。
24世帯に解約・退去してもらうわけですが、10人いれば1人くらい、ちょっと変わった人がいます。
立退料を出さないと荷物を撤去しないという人が、出てまいりました。
電話がかかり、一通り文句を言った後、今から会いたいというので、現場の近くで落ち合うことにしました。
きたない車から出てきたのは、まことに趣味の悪いスーツを着た30代前半ぐらいの男でした。
立ったまま、30分近く話をしましたが、結論は出ません。
平行線のままです。
職業を聞くと、鉄筋工の兄(あん)ちゃんでありました。
こちらも、こういうゴネる奴には、一切余計なお金を支払うつもりはありません。
私もけっこう言いたいことを言いました。
ケンカせねばならんときは、ケンカしようと思っています。
こちらのミスであれば、当然謝るべきです。
しかし、中には筋の通らない、わけの分からんことを押し通してくる人がいるものです。
こういう人は、こちらが"へいこら"しているとますます図に乗ってきます。
時と場所と相手を見て、ケンカせねばならんときにはケンカせねばならん、というのが、今の私の考え方です。
とにかく、その兄(あん)ちゃんと言いたいことを言ってケンカしておりましたら、ふっと心が通じるような瞬間がありました。
そこで、一体いくらお金が必要なのかを聞きました。
最初は、2百〜3百万円ぐらいほしいというニュアンスで言っていたのが、せめて引越代ぐらい出してほしいというふうに、トーンダウンしてまいりました。
引越代が、10万円か20万円か30万円か知りませんが、それぐらいなら、オーナーさんにお願いして出していただけるような気がしました。
しかし、そのときは、入居者の半分ぐらいの人達が、もう敷金の精算を終えていました。
逆に言えば、まだ半分の人達の退去作業が済んでいないわけです。
ここで、この兄(あん)ちゃんに引越代を渡すと、他の人達にも言いふらす可能性があります。
そうすると、他の人にも渡さないといけなくなり、非常にまずいわけです。
その日はそれで別れ、私としては、放っておくことにしました。
時間が経てば、何とかなるだろうと腹をくくりました。
しかし、アパート自体が斜めに傾き、前にある月極駐車場や、隣の家の人の生活にも支障が出始めました。
オーナーさんとも相談し、引越代15万円を「貸す」ことにしました。
もちろん借用書もいただきます。
もう一度兄(あん)ちゃんと会い、借用書にサインを求めました。
「何で、そんなんにサインせないかんのや!」
「よく見てほしい、いつ返せとは書いてないやろ」
ということで納得してもらい、お金を渡しました。
他の入居者も、遅い早いはありましたが、全員荷物を出し、退去は完了いたしました。
今、そのアパートは、無事(?)潰されています。

こんなこともありました。
地震前に仲介したマンションの売買契約に、ローンの停止条件(万一銀行ローンが融資されない場合は、白紙解約となる)がついていました。
そのローンの銀行は、買主さんの前からの取引銀行で、当社が紹介したところではありませんでした。
私どもも、その銀行にローン融資は大丈夫か否か問い合わせし、「間違いない」との回答を得ていました。
ところが、ローンの停止条件の期限が切れる2、3日前になって、銀行が買主に対し、ローンが付かないと連絡してきたのです。
私も銀行に対して、頭にきました。
あれだけ、大丈夫と言っておきながら、しかも、1ヵ月も経ってから、あれはダメでしたはないんじゃないか、ということです。
銀行の担当者とも、電話でやりあいましたが、埒(らち)があきません。
私どもは、買手側の業者でしたので、急いで売主の業者に連絡しました。
そうこうしているうちに、大地震です。
業者から売主に連絡が全然つかなくなってしまいました。
売主としては当然、契約は有効に成立し、後は残代金をもらうだけと思っているわけです。
実際のところ、手付金も借入れの返済の一部にもう充ててしまっていたようでした。
売主にとっては、寝耳に水の契約不成立です。
「手付金は返さない!」と、こうきました。
売主の立場に立てば、当然そうも言いたくなります。
一方、買主の立場からいえば、「ローン融資の停止条件が特約でちゃんと謳ってあるのにどうして手付金が返ってこないの ?! 」ということになるわけです。
余談ながら、この契約の売主、買主とも女性でありました。
さて困ったのが、中に入った仲介業者です。
先程も言いましたように、買手側の業者が当社、売手側が大手のT社です。
T社の担当は、ややネクラですがけっこう誠実で、私も何とかしなきゃいかんという気になるのですが、その上司というのが、いわゆるツブシというやつで、この人が出てくると、まとまる話もまとまらないようになってくるのです。
この問題も、神様におまかせすることにしました。
すったもんだの挙句、売主が代理人として弁護士を出してきました。
T社の担当者から、その弁護士の名前を聞いたとき、「えっ!」と思いました。
なんと、同じロータリークラブのメンバーなのです。
しかも、私がスポンサーになって入会した人でありました。
早速に、電話をし、打ち合わせを行いました。
結論から言えば、それにより、あっという間に解決してしまいました。
まさか、こんな解決法が与えられるなんて夢にも思いませんでした。
神様にお礼を申し上げたのは言うまでもありません。

トラブルといえば、こんなことがありました。
私の父が、山手で、けっこう広い土地を昔から持っておりました。
5〜6mの擁壁(ようへき)が築いてあり、その下には民家が建っています。
この地震でその擁壁にひびが入り、余震が来れば、崩れそうな状態です。
とりあえず、応急修理をしなければなりません。
さあ、困った。
そのときは、機械類も人手もとても手配できそうな状況ではありませんでした。
前から、少しお付き合いのあった、大阪の中堅ゼネコンに連絡しました。
ありがたいことに、すぐ技術者をよこし、見積りをとってくれました。
1600万円でありました。
1600万円はちょっと痛いなあ、とさすがに躊躇いたしました。
念のため、地元の土建屋さんにも見積りをとってもらうことにしました。
出てきた金額が、なんと100万円!
半分どころの話ではありません。
同じ工事が、1600万円と100万円。
最初に、1600万円の金額を聞いていたので、100万円はいかにも安く感じ、即お願いすることにしました。
それにしても、この金額の開きには、恐れ入りました。
不動産屋もけっこう"ええ加減"な職種だと思っておりましたが、土建屋さんには、かないません。

地震で家がこわれてしまったが、建築基準法上でいう道路に接していないため、建築確認がおりないようなところもけっこうありました。
建築確認がおりないということは、不法建築しかありません。
行政としては、なんとか前の建物ぐらいのものが復活できるように、いろいろと協力と工夫をしてくれているようでありました。
しかしあくまでも、所有者がもう一度住むということが前提で、建売りにして売ってしまおうとしたり、あるいは土地で売却した場合、買った人が家を建てられないということがおこるわけです。
こうなると、土地の値打ちはありません。
建物が建てられてこそ土地の値打ちであります。
駐車場や資材置き場に使おうとも、そもそも車が入れないような細い道が多いわけですからダメなわけです。
こういった土地の活用もしくは処分を依頼されたときは、一つひとつのケースをじっくりと見定めてアドバイスしていかなければなりません。

地震の後は、戦争のようなもので、1週間が1日ぐらいの感覚でした。
3週間ぐらい経ったときも、3日ほどしか経っていないような感じでありました。
しかしながら、心身ともに、くたくたでありました。
幸いなことに、会社にはシャワールームがあり、電気温水器だったので、ガスの停止にもかかわらず、毎日シャワーをあびることができました。
それでどれだけ助かったか。
もし、シャワーに毎日かかれなかったならば、あんなには決してがんばれなかったことでありましょう。
シャワーをあびながら、「ああ今日も一日終わった」とほっとする毎日でした。
シャワーの間も、電話がジャンジャン鳴っていたりします。
夜七時を過ぎたら、もう電話には出ないことにしました。
社員も帰ってしまっているし、こちらの体が持ちません。
シャワーを終え、家へ帰り、食事をすれば、もう後はバタンキューです。
そしてすぐ次の朝となります。
朝会社へ行けば、すぐ夜になります。
私は、一番早く出社し、一番遅く退社します。
出社、退社の際に、柏手(かしわで)を打ち、手を合わせ、お祈りをするのですが、「あれっ、さっきお祈りをしたばかりのような気がする」ということの繰り返しでありました。

震災後の業務で、相当忙しくしておりましたから、けっこうマスコミの取材も受けました。
地震後何日目かは忘れましたが、朝日放送系のテレビのインタビューを受けました。
実際に来たのは名古屋のテレビ局です。
カメラがまわっているから、緊張はせなアカン、疲れてフラフラなのに、できるだけまともな答えをせなアカン、でありました。
どうも次の日に放映されたらしく、私も家族も全然見ておりませんでした。
妻や娘から、「いつ放送されるかぐらい聞いていたらよかったのに!」という非難ごうごうでありました。
放映の翌日、岡山県の友人から電話がかかってきました。
「テレビ見たよ」
私は、何を答えたかあまり覚えてなかったし、テレビの映り具合も多少気になったものですから、「テレビどうだった?」と聞きました。
「深刻そうで、なかなかよかったよ」とのこと。
実はしんどかっただけのことであります。

地震のすぐ後で、罹災都市借地借家臨時処理法というのが、閣議決定されました。
50年前の亡霊のような法律です。
これを今の時代に適用するのは、相当無理があるように感じました。
マンションのような建物は、この法律ができたときにはなく、長屋のような建物を対象に想定していたのではないかと思われます。
第一、最初に「定義」として「罹災建物」とは、「空襲その他の今次の戦争による被災のため減失した建物をいう」となっています。
今回は、戦争ではなく地震です。
明らかに、定義のところで違うのに、これをまともな顔をして施行させるというのが不思議でたまりません。
日本中の人がみんな頭がおかしくなったのではないかと、いぶかってしまいます。
この法律のおかげで、よけいに権利関係がややこしくなりそうです。
多分何も分からずに閣議決定したんだろうなという気がいたしました。
罹災都市借地借家臨時処理法が施行されると聞いたとき、これで復興が3年遅れるな、と反射的に感じました。
阪神間は豊かな地域です。
民間の底力もあります。
行政は道路や公共施設などの社会的ファンダメンタルズに力を入れ、いらぬ制限を加えるべきではないと考えます。

さて、震災後の不動産の動きに目を転じましょう。
地震後、賃貸住宅を探しにお客様が当社に殺到されたように、当面、賃貸の需給のバランスは思いっ切り崩れたままで推移することになるでしょう。
なにせ、11万戸が崩壊しているわけです。
少なくとも、ここ2〜3年間は供給が足らない状態が続くに違いありません。
地震前、あれだけダブついてきた賃貸住宅が、わずか3日で在庫を尽きました。
あとから出てくる空室も、かなり早いスピードで埋まっています。
ただし、家賃が15万円以上の分は、さすがに苦戦しています。
被災した人にとっては、家賃というのは余分なお金であるわけですから、なかなか15万円をすんなり支払えるという人はおりません。

*     *     *

前の文から、1年たってこの文章を補充しています。
「少なくとも、ここ2〜3年間は供給が足らない状態が続くに違いありません」と書いておりました。
これは全くまちがった予測でありました。
地震後1年目ぐらいで、もう賃貸住宅が余り出しました。
モーレツな勢いで供給が需要を追い越してしまいました。
地震の前もけっこう賃貸住宅がダブついていました。
地震から1年半たった今、それよりもまだ需給のバランスが崩れてしまっています。
新築のアパートが埋まらないのです。
地震前は、いくらなんでも新築の分は満室になりました。
賃貸を取り扱う業者として、何とかしなければといろいろと手を打っています。

*     *     *

「借り」希望のお客様はいっぱいですが、「買い」は意外に少ないように思います。
買い換えのお客様はおられても、「買い」単独の人はあまりないのかもしれません。
マンションなどは、修繕の各戸別負担額が決まるまでは、とても買えないという模様ながめの様子です。
私でも、しばらく買うのを待つと思います。

人が住めなくなることを、全壊と定義するならば、私の知っている限り、宝塚市内で全壊した分譲マンションは、10棟くらいあるように思います。
マンションの全壊というのが、一番やっかいであります。
まず居住者(所有者)みんなで、建て直すのか修理するのかを決めなくてはなりません。
1回や2回の集会で結論は出ないでしょうから、それを決定するだけでも大変なエネルギーが必要です。
戸建てならば、建て直すのか、修理するのか、はたまた売却してしまうのかは、自分ひとりの判断でできます。
既存不適格といって、建て直そうと思っても、今の法律だと、元の大きさのマンションが建たないというケースが出てきています。
容積率が不足していたり、北側斜線制限にひっかかったりするからです。
こういうのを、どう解決していくのか――難問であります。
また、大きな敷地に5棟ぐらいのマンションが建てられていて、それがすべて同じ管理組合のところがあります。
これなど、A棟は何ともないが、B棟は半壊、C棟は全壊というふうに、被害状況が違ってきた場合、修理の負担額の分担を決めるのがなかなか難しくなりそうです。
当社も、分譲マンションの部屋を宝塚市内でいくつか所有していますが、修理負担金はそれぞれ、だいたい百万円ぐらいでした。

この地震の影響で、不動産をもう無理に買わなくても、という気持ちになった人も多いのではないかと思います。
地震に関していえば、賃貸は気楽、所有は大変でありました。
人生観が変わった人も少なくないはずです。
そんなにモノに執着することもないのではないか。
また経済的な意味合いから言って、賃貸志向が強まる可能性があります。
「日本人は、昔から土地(不動産)に執着がある」といいますが、本当でしょうか?
江戸時代、武士階級が住んでいた住まいは、みんな藩からの借りものでした。
即ち、社宅みたいなものです。
職人階級は、熊さん八っつぁんの世界で、これまたみんな借家の長屋でありました。
夏目漱石が、ロンドン留学から帰った後、女中もいるような大邸宅に住みましたが、これも借家でありました。
もう一度、違う大邸宅に引越ししていますが、これまた借家でありました。
日本人が、マイホーム、マイホームと言い出したのは、どうも戦後のローンが整備されてきてからのことではないかと思うのです。
82歳になる父などに聞いても、昔は、土地の上に敷くゴザの方が、その下の土地よりも高かったことがあったとのことです。
国民の意識が、所有から利用へと変わってくるにつれ、不動産の価値もまた変わっていくに違いありません。

今度の地震で「仕事とは本来何なのか」というのがよく分かりました。
不動産屋が人助けの最先端に立てた貴重な体験と申しましたが、人のお役に立て、感謝されて、そして手数料という形で私どもも潤う――仕事とは本来こういうことなのでしょう。
お金は後からついてくる。
まずは、人のお役に立つことが先であるに違いありません。   
今まで我々の業界は、お金儲けの方が先に立ってしまい、人のお役に立つという基本的なことが、なおざりにされていました。
だから、社会的なプレステージがいつまでも低いのです。
今回はっきりと、仕事というもの、会社というもののあるべき姿を見出すことができました。

これはテレビで見たのですが、神戸の方である中華料理店が潰れました。
1階がお店で、2階が住まいの小さな料理店です。
そこの主人がまず助け出され、次に奥さんが助け出され、そして最後に娘さんも助けられました。
家族3人抱き合って泣いていました。
後でインタビューを受け、「家族がこうして無事で、こんなしあわせなことはない」とのことでした。
これを見ていて、感動しました。
家も店もみんな失ったのに、感謝できるというのは、本当に素晴らしいことだと思いました。
私も、自分が無事で、家族も無事、お店も社員も無事ならば、後は世のため人のためという気になりました。
それぐらいの気持ちにならなければ、あの恐ろしい地震の洗礼を受けた値打ちはないですよね。
肉体も精神も、くたくたになりましたが、魂的には非常に大きな向上の時期であったのではないかと思います。

本業に打ち込む以外に、いったい自分は何ができるのだろうかと考えました。
本業を放ったらかして、ボランティアばかりに力を入れていくわけには参りません。
しかし、経済的には多少はお手伝いできるかもしれません。
毎月5万円ほどを目処に、いろんなところに寄付していこうと考えています。
私は、酒もたばこもたしなみませんし、ゴルフやマージャンすらしません。
同世代の男性と比べて、月に5万円ぐらいは余裕があるのです。
この分を寄付にまわすというわけです。
最初は、自分のサイフからお金を取り出して寄付してしまうことに、けっこう抵抗がありました。
まさに執着そのものです。
しかし、これも慣れだということに、すぐ気がつきました。
この世は仮の姿、身も心も軽く、軽く。
これもまた、この地震によって悟ったことでもあります。

地震その後の会社経営についてお話しします。
3つの基本方針というのを打ち出しました。
(1)地域密着
(2)不動産専業
(3)堅実経営
というものです。
地域密着というのは、地場の業者としては決してはずすわけにはいかない方針であります。
具体的に言えば、車で20分以内のところのみの仕事をするということであります。
ましてや、バブルの時に手を出していた東京や九州の物件には、一切目もかけないということでもあります。
車で20分以内のところを、いかに高密度の自社エリアに変えていくかというのが勝負であります。
その地域の中で、いかに管理物件をたくさん持つか、受託を多く取るか、カンバンをたくさんつけるか、人脈をどれだけもつか、知名度が浸透しているか、高シェアを確保しているか等々が、とても大切なことであります。
地域密着には、安定と成長との両方の道が開けています。
他地域へどんどん拡張していくよりも、自分のテリトリーを決め、そこでじっくりといい仕事をたくさんしていく方が、よっぽどいいわけです。
よっぽどいいというより、それしか生き残る道はないと思います。
今は「出口地所」という名前が、ほんとうに地域に浸透してきました。
私は、地主さんや家主さんへの飛び込み営業をよくするのですが、昔は"けんもほろろ"だったこともよくあるのですが、最近はだいぶん違ってきました。
「出口地所の出口です」と言えば、とりあえず話は聞いてもらえるところまでいくようになりました。
大企業に勤める社員が、会社の威光を自分の実力と勘違いして、辞めてからしまったというケースが多いのですが、出口地所の創業者の私ですら、「出口地所の出口」から出口地所を取り、ただの「出口」になったときに、どれだけ通用するかといえば、甚だ疑問であります。
それだけ、この地域で「出口地所」というブランドを育ててきたとも言えます。
こと宝塚市内に関してのみ言えば、「出口地所の出口です」でたいていの人とはお会いできるところまでいくようになりました。
市長ともお話しができます。
警察の署長にもお目にかかることができます。
これが隣の市へ一歩出たとたん「出口地所」の威光がいきなりなくなってしまい、誰も知らないということになります。
それでいいと思うのです。
人はそんなにたくさんのことはできない。
社員数15名ぐらいの小さな会社ですから、何もかもできるというわけじゃない。
できるだけ絞った地域で、その中でbPにならなければいけないと思うのです。
自分が決めた戦略エリアの中で、いかにbPとなるか。
もしbPになれなければ、bPになれるところまで地域を絞るべきであります。
経営にとって一番大切なことは、ひょっとしたら、この「絞る」ということかもしれません。
地域を絞る、顧客層を絞る、商品を絞る、価格帯を絞る――とにかく絞ったターゲットの中でbPを目指していくというのが正しい方法であります。

基本方針の2つ目は、不動産専業であります。
不動産に特化していく、ということです。
建築には手を出さない、ということでもあります。
当社は、社員数15名ほどの小さな会社です。
不動産業だけでも、売買の仲介、定期借地権分譲、賃貸の仲介・管理、駐車場管理と、やることがいっぱいあるのです。
今の人数では、もうこれ以上、他の産業へ手を出す余裕がありません。
これ以上の拡大は、私の能力を超えてしまいます。
私の器から言って、今の人数が最適なのです。
定期借地権分譲などをやっていると、建築も自社でやれば儲かるのに、と言ってくれる人もいます。
しかし、私には建築の専門知識がありません。
社員の中にも、建築のプロはおりません。
今後も雇うつもりはありません。
そんな会社が、建築の分野に入っていくのは、おこがましいと思うのです。
工務店に工事を丸投げし、自分は何もせずに利益だけ乗せて売るのはおかしいと思うのです。
自分たちが貢献した分、利益を取るのは、これは当然のことだし、全く支障はありません。
しかし、貢献以上の儲けは、必ずどこかで損をするようにできている――これは私の体験でもあります。
ほんとうにそうなのです。
たとえ損しなくても、人事で問題が出てきたり、事故がおこったりします。
赤字では困るのですが、適度に利益が上がっていれば、あとはいかに機嫌よく仕事をやっていくかを考えれば、それでいいんじゃないでしょうか。
月に手取り百万円ぐらいの収入があれば、あとは2百万円であろうと、5百万円であろうと、1千万円であろうと全く同じだと思います。
一日3回食べている食事を4回食べてもしかたがないことだし、一度ベンツを買えばもうそれ以上は買う必要はないし、毎日飲み歩いて豪遊しても、今度は体の方がもたない。
第一、心と体が確実に荒(すさ)んでしまいます。
自分をダメにする方向にお金を使うこともないわけです。
話が逸れました。
とにかく、建築には手を出さないと決めました。
建築も日進月歩です。
その研究・勉強に費やす莫大な労力と時間と費用を、不動産の分野に特化したいと思うのです。
不動産専業でいくというのは、不動産に関してはどこにも負けないということでもあります。
知識も経験もノウハウも実績も、あそこに行けばどこよりも安心して任せられるというところまでいかなければならないと思うのです。
地域を絞り、業種を絞りました。
絞るということは、結局、「何をもって自分は社会に貢献するのだ」ということに通じると思います。
何の得意技をもってやっていくのかということでもあると思うのです。

さて、3つ目の基本方針。
堅実経営であります。
堅実経営とは、まず借入れをしないこと、そして、社員数をむやみに増やさないことです。
借入れはもうたくさんです。
十分懲りました。
最高16億円までいきました。
今はゼロです。
よくまあ返せたものだと思います。
これは守護霊のおかげだと感じています。
毎朝感謝のお祈りをしています。
地震の前の暮れに、所有していた小さなマンションが売れ、会社、個人とも借入れがゼロになりました。
平成6年の12月に無借金となり、平成7年1月に大地震です。
あの時点で無借金であったということが、どれほど気持ちを軽くしたことか。
もし平成3年ごろに大地震が来ていたら、経営内容的に言って、まずあっさりと倒産していた可能性もあります。

貴重な体験、阪神大震災での学び・気づき・悟りは、後から考えればほんとうにありがたいものでありました。
しかし、二度と体験したくないというのもまた本心であります。
この経験を通し、自分と不動産は、より密接に結びついたような気がします。
不動産業は、ひょっとしたら自分の天職かもしれない、とも思います。
20年以上、この仕事をやっているわけですから、多少なりとも知識があります。
判断ができます。
ならば、その智恵をより広く、より深いものにしていくのも、自分の使命なのかもしれません。
一日一日を充実させていこうと思います。
やりたいことがいっぱい出てきました。
何だか、夢いっぱいに43歳なのです。